この酒を抱くには、地球は狭すぎる。獺祭

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日本酒にはまるきっかけになり、ちゃんと飲んだ最初の酒でもあるのに、紹介するのが遅くなってしまったこの酒。 

この酒を収めるには、地球は狭すぎる。

 最近は宇宙での発酵にまで踏み込んでしまった、あの酒。

 免税店のお土産酒ナンバーワンにして、 (おそらく)全国のドン・キホーテで見かけることができる、あの酒。 それがまさに、

十四代——

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冗談です。今日ご紹介するのは、獺祭です。

 今日は、獺祭の始まりから今に至るまで、 そして私が思う獺祭について、話してみよう。

獺祭の歴史

 

獺祭を造る旭酒造(株式会社獺祭)は、1770年に建てられた蔵を、1910年に桜井喜一氏が買い取り、「桜井酒場」と名を改めた。 そして桜井酒場は、終戦後の1948年、現在の旭酒造へと改称した。 (この時に生まれた「旭酒造」という名前は、今もなお「ビール会社の子会社か、新聞社の子会社か」という質問を受けることがあるという。)

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もともとは、今のように全国的に知られた蔵ではなかった。(他の多くの蔵と同じように) 当時は「旭富士」という普通酒を造っており、戦後の高度経済成長期の波に乗って、販売実績は悪くなかったという。しかし1973年のオイルショックを境に、旭酒造は下降線をたどり始める。そして1976年、3代目蔵元となる人物であり、旭酒造を現在の地位へと押し上げる上で大きな役割を果たした「桜井博志」氏が、蔵へと戻ってくる。

(補足:個人的に、旭富士を一度飲んでみたい。)

旭富士

獺祭の誕生——3代目蔵元・桜井博志氏の経営継承

蔵の苦境を受け、家業を守るために戻ってきた博志氏。

しかし父・博二氏は高度経済成長期(オイルショック以前)の販売戦略に強くこだわり、戦略の転換なくして蔵の再生はないと訴える博志氏との衝突が絶えなかった。

結局、博志氏は蔵を去ることになる。 

父子の関係は、父であり2代目蔵元でもある博二氏が亡くなるまで修復されることはなく、博志氏は父の死後、1984年にようやく3代目蔵元へと就任した。 

1984年の就任当時、売上高は10年前の3分の1にまで落ち込み、日本酒の全国消費量も減少傾向にあった。

 *焼酎・ワイン・ウイスキー・ビールなどの消費が拡大していく中で、避けられない流れであった。 

当時の日本酒の主流は普通酒(精米歩合が低く、醸造用アルコールを添加したタイプ)であり、旭富士も例外ではなかった。 

桜井博志氏は、日本酒の主流が普通酒であることは承知していたが、その主流が下降線にあることも見抜いていた。

だからこそ、衰退しつつある市場に投資するのではなく、新たな市場を切り拓くことを決意した。 

こうして生まれたのが、全ラインが純米大吟醸という「獺祭」である。 

酒米はすべて、酒米として最も優れた品種とされる山田錦のみを使用し、地元商圏ではなく東京市場を狙うことで、新たな事業の幕を開けた。 

さらに、土地や気候に左右される酒造りではなく、科学技術と蔵人たちの体系的な管理によって、一年を通じて安定した品質の酒を造る手法を採用した。 

その結果は、誰もが知る通り——世界中で流通する、ほぼ唯一の日本酒となった。

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(緑色は日本酒の消費量、オレンジ色は獺祭の出荷量を示している。)

出典: https://www.nippon.com/en/features/c00618/

現在

 

2016年を機に、桜井博志氏は自身の息子である「桜井一宏」氏に4代目蔵元を託した。

(蔵元という組織体制を超えて株式会社へと移行しているため、正確には会長と呼ぶのが適切かもしれないが。) 博志氏が普通酒から純米大吟醸へとラインナップを刷新し、東京を起点に全国へと認知を広げたとすれば、一宏氏は日本を飛び越え、獺祭を世界へと発信することに力を注いだ。 

ニューヨークには「獺祭ブルー」を醸造する蔵を構え、 パリの中心地には、獺祭を提供するレストランをオープンさせた。

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現在、約40カ国以上に輸出されており、グローバルの販売量は全体売上の40%を占めるほど、海外市場での収益が会社全体の業績に大きな割合を占めている。

(中国、アメリカ、ヨーロッパの順である。) 

そしてつい最近には、NOTEに書いた私の記事にもコメントを残してくださった。

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1984年に9700万円だった売上は、2010年には13億円、2022年には160億円を突破、2025年には213億円を超え、驚異的な成長を見せている。

そして最近では、いつか人類が宇宙で暮らす日が来たとき——ニューヨークの獺祭ブルー醸造所のように——月やその他の宇宙空間でも同様の醸造所を構えることを見据えたデモ実験として、宇宙での米の発酵実験を実施。見事、「獺祭 月」の醸造に成功した。 (もろみの発酵まで宇宙ステーションで行い、地球に回収後、搾りと瓶詰めの工程は日本で実施。)

妻と昼ごはんの食材を買って帰る途中、バスに貼られた広告を見て 「飲めるかな?」と呟いたことがあった。 値段を見て「ふむ!」 と言って、すぐに忘れた。

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おわりに

以前も触れたように、獺祭は私の人生の方向性を決める上で、大きな力を与えてくれた酒だ。

 看護師として働きながら、このまま一生看護師を続けるには、自分の人生には何か別のものがあるはずだという漠然とした思いを一日中抱えていたあの頃。

退勤後に飲んだ獺祭が、私を酒の道へと踏み込ませ、日本語の勉強へ、さらには日本酒の探求へと導いた。 そしてその過程で今の妻と出会い、結婚し、子どもまで授かった。 

これが全て獺祭のおかげだというのは、いささか大げさかもしれない。しかし、獺祭が当時の私の迷いをある程度引き留めてくれたことは、疑いようがない。それほどまでに、あの頃の影響は大きかった。

日本酒を飲めば飲むほど、調べれば調べるほど、魅力的な蔵が次々と現れ、その蔵が醸した酒はやはり旨かった。 背景を何も知らないままいただいた贈り物の酒も旨く、そうした経験が重なって、日本酒がますます好きになっていった。

旭酒造についてここまで時間をかけて調べたのは今回が初めてだが、やはり魅力的な蔵だった。 黒龍のように、純米大吟醸をほぼ草創期から商業化させた蔵もある。

しかし、

大胆な決断力でラインナップもシステムも全て刷新し、東京市場、メジャーな市場を目指した——それを「桜井スピリット」と呼んでいいだろうか。

その精神があったからこそ、獺祭という魅力的な酒を生み出す蔵になれたのではないかと思う。

だからこそ、海外でも最も知られた日本酒となり、獺祭23ともなれば高級酒としての認識もすっかり定着した。韓国にいた頃、裕福な社長さんたちが大切なお客様をもてなす際に、コルキジで獺祭23を持ち込むケースが多くあった。(久保田 萬寿も時折見かけた。)

1984年、一人の人間の思いが、40年という歳月を経て蔵の売上を220倍にした。 想像で未来を描き、行動でその未来を現実にした。 そして2025年、博志氏は自身のホームページの日記に、売上1000億円を目標に掲げると記した。 獺祭がどこまで行けるのか、気になって仕方がない。

そして私は—— 今回は獺祭 月を飲めなかったけれど、、、 次は飲めるだろうか? 飲めるに決まってる!!

出典: https://dassai.com/us/diary/005931.html

(獺祭の歴史)

https://www.nippon.com/en/features/c00618/

(日本酒販売量、獺祭誕生の背景)